概説
『神の道化師、フランチェスコ』(イタリア語原題: Francesco, giullare di Dio)は、1950年のイタリア映画である。
1210年から1218年頃までのイタリア中部のウンブリア地方の町、アッシジとその近郊を舞台に、中世イタリアのカトリック修道士、アッシジのフランチェスコ(1181–1226年)と「小さき兄弟団」と呼ばれるその信徒(兄弟)たち(初期のフランシスコ会修道士)に関する一連のエピソードを描いている。
監督はロベルト・ロッセリーニ。脚本はロッセリーニがフェデリコ・フェリーニと共同で執筆した。撮影はオテッロ・マルテッリ。音楽はレンツォ・ロッセリーニ。
言語はイタリア語。モノクロ。89分。
解説
本作は14世紀の名詩選『聖フランチェスコの小さな花』と『兄弟ジネプロ伝』の2つの文書から着想を得ている。
本作はリアリティー重視の伝記ドラマではなく、アッシジのフランチェスコとその信徒たちの奇行に関する逸話に焦点を当てたユーモラスな映画である。
本作は冒頭の導入部と9つの章で構成されている。
1210年、ローマで教皇のインノケンティウス3世から布教を許可されたフランチェスコ(修道士ナザリオ・ジェラルディ)と11人の信徒たちはアッシジ近郊のリヴォトルトの小屋に帰ってくるが、小屋は農民とそのロバによって占拠されていた。
彼らはポルチウンクラに移って礼拝堂を再建し、礼拝堂の近くに小屋を建てる。彼らは小屋で共同生活を始め、托鉢修道士および巡回説教師として物乞いをしながら説教をして回る。
彼らの宗教戒律(無所有と清貧、無私、他者への奉仕、自己犠牲)は極度に自虐的で、一部の兄弟たち、特に兄弟ジネプロ(修道士セヴェリーノ・ピサカネ)は先のことを考えずに戒律を実践しようとするため、彼らの言動は時として愚かで自己破壊的に見える。
本作は利己主義や物質主義、所有欲に対する批判を含んでいるという点で教訓的だが、コメディー映画のように滑稽でもある。
例えば、ジネプロは布教から帰る途中で出会った物乞いに自分の修道衣をあげてしまい、下着姿で帰ってくる。
兄弟アマツァルベーネが過度の断食で病気になり、ジネプロに豚足が食べたいと言う。ジネプロは農場で見つけた豚の足を切り取って持ち帰り、豚の持ち主を激怒させる。
暴君ニコライオ(アルド・ファブリーツィ)が率いる軍勢によって包囲されているヴィテルボの町にやって来たジネプロは野蛮な兵士たちを相手に説教をしようとするが、兵士たちはジネプロを投げ飛ばし、ジネプロの体を縄にして長縄跳びをし、ジネプロを馬で引きずり回す。ジネプロを自分の命を狙う刺客だと思い込んだニコライオはジネプロに死刑を宣告する。
雪の降る寒い日に、フランチェスコは兄弟レオーネと「完全なる歓び」とは何かということについて語り合う。彼らはある館を訪れて施しを乞う。玄関番が出てきて2人に罵声を浴びせ、棍棒で叩いて2人を追い払う。フランチェスコとレオーネはぬかるみにはまって泥まみれになる。フランチェスコはレオーネに、これこそが完全なる歓びだと説く。
精神的な豊かさとは何かということについて考えさせられる映画である。
本作は、単純であることが真に敬虔であることの条件であり、それは聡明さよりもむしろ愚かさに近いということを、寓話のようなエピソードによって示している。
暴君ニコライオ役を演じたアルド・ファブリーツィを除いて、本作の出演者の大半は非職業俳優である。ノチェーラ・インフェリオーレ修道院の本物のフランシスコ会修道士たちがフランチェスコとその兄弟たちを演じた。
オテッロ・マルテッリが撮影した映像が極めて美しい。ピエル・パオロ・パゾリーニは本作について「イタリア映画の中で最も美しい」と述べ、フランソワ・トリュフォーは本作を「世界で最も美しい映画」と評している。
本作は1950年のヴェネツィア国際映画祭で初上映された。
1995年にヴァチカンは45本の「偉大な映画」のリストの「宗教」部門の1本に本作を選出した。
アメリカ合衆国のクライテリオン・コレクションとイギリスのエウレカ・エンターテインメントは2005年に本作のDVDを発売した。
日本では2004年に紀伊國屋書店からDVDが発売され、4Kレストア版ブルーレイが2023年にIVCから発売された。
2021年にカンヌ国際映画祭のクラシック部門で本作が上映された。
あらすじ(ネタバレ注意)
映画の冒頭で、ナレーター(ジャンフランコ・ベリーニ)がアッシジのフランチェスコが作曲した歌『太陽の賛歌』(別名『被造物の賛歌』)の歌詞を読み上げ、新約聖書の『コリントの信徒への手紙一』からの引用テクストが画面に表示される。
導入部
1210年、ローマで教皇のインノケンティウス3世から布教を許可されたフランチェスコと11人の信徒たちは、土砂降りの雨の中、アッシジ近郊のリヴォトルトの小屋に帰ってくるが、小屋は農民とそのロバによって占拠されていた。農民は彼らを小屋から追い出す。
第1章
彼らはポルチウンクラに移って礼拝堂を再建し、礼拝堂の近くに石造りで藁葺き屋根の小屋を建てる。
彼らが小屋で歌っていると、ジネプロが下着姿で布教から帰ってくる。ジネプロは物乞いに修道衣をあげたと言う。フランチェスコは許可なく修道衣を人にあげてはいけないとジネプロを諭す。
第2章
「単純者(il Semplice)」と呼ばれている、ジョヴァンニという名の年老いた農夫(修道士ペパルオーロ)がフランシスコ会の修道士になるためにフランチェスコのところにやって来る。ジョヴァンニは贈り物の雄牛を一頭連れてきていた。フランチェスコは雄牛をジョヴァンニの家族に返す。ジョヴァンニの家族は雄牛を連れて家に帰る。
フランチェスコはジョヴァンニを新しい兄弟として他の兄弟たちに紹介する。
フランチェスコに心酔しているジョヴァンニは、フランチェスコの言葉や動作を真似し始める。
第3章
サン・ダミアーノ修道院の修道女のキアラ(アリベラ・ルメートル)が3人の修道女を連れてフランチェスコに会いにやって来る。修道女たちはフランチェスコとともに礼拝堂で祈りを捧げる。
ジネプロが下着姿で帰ってくる。兄弟たちはジョヴァンニのマントを脱がせてジネプロに着せる。
第4章
兄弟アマツァルベーネが過度の断食で病気になり、ジネプロに豚足が食べたいと言う。ジネプロは農場で見つけた豚の足を切り取って持ち帰り、豚の持ち主を激怒させる。
フランチェスコはジネプロに、豚の持ち主に謝って許しを請うようにと命じる。
第5章
ある晩に森の中で瞑想していたフランチェスコは、杖をついて鈴を鳴らしながら歩いているハンセン病の男に出会う。フランチェスコはその男を無言で抱きしめる。男は立ち去る。フランチェスコは地面に倒れ込んで神に祈りを捧げる。
第6章
ジネプロは兄弟たちが説教に出かけている間に兄弟たちの夕食を作る仕事を任されていた。
2週間分の料理を一度に作れば自分も布教に参加できるだろうと考えたジネプロは、大量の野菜を大釜に放り込んで2週間分の料理を作る。
フランチェスコはジネプロの熱意を評価し、ジネプロが布教をすることを許可する。
第7章
暴君ニコライオが率いる軍勢によって包囲されているヴィテルボの町にやって来たジネプロは野蛮な兵士たちを相手に説教をしようとするが、兵士たちはジネプロを投げ飛ばし、ジネプロの体を縄にして長縄跳びをし、ジネプロを馬で引きずり回す。
ジネプロを自分の命を狙う刺客だと思い込んだニコライオはジネプロに死刑を宣告する。
ジネプロがフランシスコ会の修道士であることに気付いた司祭はニコライオにジネプロの死刑の中止を進言する。
ニコライオは直接ジネプロを取り調べる。ニコライオはジネプロが脅されても微笑を浮かべ続けているので困惑する。ニコライオは軍に町の包囲を解くように命じて、ジネプロを解放する。
第8章
雪の降る寒い日に、フランチェスコは兄弟レオーネと「完全なる歓び」とは何かということについて語り合う。彼らはある館を訪れて施しを乞う。玄関番が出てきて2人に罵声を浴びせ、棍棒で叩いて2人を追い払う。フランチェスコとレオーネはぬかるみにはまって泥まみれになる。フランチェスコはレオーネに、これこそが完全なる歓びだと説く。
第9章
フランチェスコとその信徒たちは、自分たちの所有物と食糧のすべてを町民や貧しい人々に分け与え、ポルチウンクラを去って伝道の旅に出る。彼らは互いに別れを告げて、各人がそれぞれ別の方角に向かう。