概説
『地獄変』は、「怪奇と叙情」を特徴とする独自の作風のホラー漫画で知られる日本の漫画家、日野日出志による1982年の漫画である。
ある絵師が見たこの世の地獄の心象風景を終末論的なビジョンとして描いた幻想的なホラー漫画である。絵師は血の美しさに魅了され、第二次世界大戦前後の三世代に渡る自身の血統の呪われた運命について告白する。
『地獄変』は日野の長編漫画の中では最もよく知られている作品の一つである。
作者の自伝的な要素の導入が本作の特徴である。
オリジナルの日本語版は1982年にひばり書房から単行本として出版された。
本作は英語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語に翻訳されている。
著者について
日野日出志は1946年に、第二次世界大戦終結時の1945年に日本が敗戦するまで日本の占領下にあった中国東北部のチチハル(旧満州)で生まれた。日野の両親は1946年に日野を連れて日本に引き揚げ、その後日野は東京で育った。
日野は幼少の頃から杉浦茂のギャグ漫画を好んでいた。
日野は新人賞入選作の2つの短編漫画、『つめたい汗』(1967年に漫画雑誌『COM』に掲載)と『どろ人形』(1968年に漫画雑誌『ガロ』に掲載)で漫画家としてデビューした。
日野はレイ・ブラッドベリのSF短編集『刺青の男』(1951年)に触発されて短編漫画『蔵六の奇病』を描き、1970年に漫画雑誌『少年画報』に発表した。日野はこの作品を転機として「怪奇と叙情」を特徴とする独自の作風を確立し、その後、日本の国内外でカルト的な人気を誇るホラー漫画家として知られるようになった。
日野のホラー漫画は、杉浦茂に影響されたギャグ漫画風のキャラクターデザイン、大きな丸い目のキャラクター、ウジ虫がたかる腐乱死体などの生理的な嫌悪感を催させるグロテスクな描写、幼少期への執着、社会的なのけ者の悲哀と怨念を描く叙情性、おとぎ話のようなファンタジー、つげ義春からの影響をうかがわせる自伝的な要素の導入などが特徴である。
日野のホラー漫画の中では、『蔵六の奇病』、『地獄の子守唄』(1971年)、『地獄変』、『赤い蛇』(1983年)などが代表作として知られている。
日野はホラービデオ作品『ギニーピッグ』シリーズの2作品、『ギニーピッグ2 血肉の華』(1985年)と『ザ・ギニーピッグ マンホールの中の人魚』(1988年)で監督と脚本を務めたことでも知られている。
日野は2005年から2023年にかけて、大阪芸術大学芸術学部キャラクター造形学科で准教授および教授として教鞭を執っていた。
日野の実像に焦点を当てたドキュメンタリー映画『伝説の怪奇漫画家・日野日出志』(監督: 寺井広樹)が2019年に日本で公開された。
出版履歴
日本語版
1982年にひばり書房の「日野日出志ショッキング劇場」シリーズの1作として『ある地獄絵師の告白 地獄変』というタイトルで出版された。
1993年に『地獄変』というタイトルで青林堂からハードカバー本として再刊された。巻頭カラー口絵5葉(8ページ)とライターの蜂巣敦による解説、作者の後書きが収録されている。
2005年にマガジン・ファイブから再刊(星雲社から発売)された。巻末に日野のロングインタビューが収録されている。
2020年にゴマブックスから電子書籍として再刊された。
『地獄変』は2023年に太田出版から刊行された単行本『日野日出志ベストワークス』に『蔵六の奇病』『地獄の子守唄』とともに収録された。
英語版
1989年に英語版が『Panorama of Hell』というタイトルでBlast Booksから出版された。英訳者の一人は日本のSFX(特殊効果)アーティストのスクリーミング・マッド・ジョージである。
2023年に新しい英語版がStar Fruit Booksから刊行された。
イタリア語版
1992年にイタリア語版が『Visione d’inferno』というタイトルでTelemaco Comicsから出版された。
2019年に新しいイタリア語版がDynit Mangaから出版された。
フランス語版
2004年にフランス語版が『Panorama de l’enfer』というタイトルでÉditions IMHOから出版された。
フランス語版は2005年のアングレーム国際漫画祭で最優秀作品賞にノミネートされた。
スペイン語版
2006年にスペイン語版が『Panorama infernal』というタイトルでEdiciones La Cúpulaから出版された。
スペイン語版は2018年に新しい表紙で再刊された。
ポルトガル語版
ポルトガル語版が『Panorama do Inferno』というタイトルで2006年にブラジルでConradから、2021年にポルトガルでSendai Editoraから、それぞれ出版された。
解説
『地獄変』は『赤い蛇』と並び称される日野の傑作である。
日野自身は、『地獄変』と『赤い蛇』はどちらも自伝的な作品であり、二つで一対をなすと述べている。どちらの作品においても、日野自身の自伝的なエピソードと子供時代の記憶が幻想的な世界観へと昇華されている。
『地獄変』は、日野が自らの自伝的なエピソードと架空の設定を織り交ぜて終末の地獄絵図(インフェルノ)という観念的な世界観を描いた、芸術的なホラー漫画である。日野は本作で、おぞましさが美に反転する独自の美学を貫いている。
『地獄変』は日野の短編漫画『地獄の子守唄』(1971年)を原型とする長編作品である。
『地獄の子守唄』では、人を呪い殺す能力を持つ「日野日出志」という名の漫画家が自身の幼少期について語り、最後に読者に「君はこの漫画を見てから3日後に必ず死ぬ」と言う。
『地獄変』は『地獄の子守唄』における主人公の独白形式と結末を踏襲している。どちらの作品においても、結末で主人公の呪詛が読者を含む現実の世界に接続される。
本作における絵師の家族(祖父、父、弟)と満州からの引き揚げに関するエピソードは、日野の家系と出自に関する事実に部分的に基づいているが、物語の結末部では、絵師の家族(母、弟、妻、子供たち)が絵師の妄想の産物であることが明かされる。このメタフィクション的な語りの構造は、本作が絵師の妄想を心象風景として描いた作品であることを示している。
絵の完成度も本作の注目すべき点の一つである。日野の画風は、白と黒のコントラストの強調と細かい描線による繊細な陰影が特徴である。一つ一つのコマが絵画のように美しい。ズームインなどの映画的な手法も効果的に用いられている。
あらすじ(ネタバレ注意)
本作の物語は一人の絵師の独白形式で語られる。
本作は序章と13の章(地獄絵)で構成されている。
シンイェ・アンツー『地獄よ…』
序章の前に「シンイェ・アンツー」という架空の人物の『地獄詩集』から『地獄よ…』というタイトルの詩がエピグラフとして引用されている。シンイェ・アンツーという名前は日野の本名の星野安司の中国語読みである。
日野の他の2作品、『恐怖・地獄少女』(1982年)と『赤い蛇』にもシンイェ・アンツーの『地獄詩集』からの引用が含まれている。
序章
血の美しさに魅了されたその絵師は、毎日家に閉じこもって地獄絵ばかり描いていた。
絵師は自分の体を切り刻んで、流れ出る血を絵の具として使っていた。
絵師は自身のライフワークとも言える大作を描き始めていた。それはこの世の終わりを描いた終末地獄変だった。
絵師は今までに描いた地獄絵について語り始める。
第1の地獄絵: ギロチン刑場
絵師の家の前にギロチン刑場が聳え立っている。
そこでは毎晩大勢の死刑囚たちの斬首が行われている。
斬り落とされた生首は貨物列車で運ばれてゆく。線路は真っ赤な血で染まっている。
その血を吸って赤い花が咲き、人間が食べると発狂すると言われている地獄の赤い実をつける。羽毛のない鳥たちがその実をついばんでいる。
第2の地獄絵: 底無しの地獄川
線路際に地獄川と呼ばれる底無しの川が流れている。川の水は線路から染み込む血で真っ赤に染まっている。
おびただしい数の人間や動物の屍が川面を浮き沈みしている。
第3の地獄絵: 首無し死体の火葬場
絵師の家の隣に、ギロチンで首を落とされた死刑囚たちの首無し死体を専門に焼く火葬場がある。
無数の死体たちがギロチン刑場から地下輸送パイプでそれぞれの釜に自動的に送られてくる。
第4の地獄絵: 死刑囚の墓場
絵師の家の裏に死刑囚たちの墓場がどこまでも無限に広がっている。
墓標には動物の生首が置かれている。
夜になると首無しの亡者たちが墓場から現れ、首を探して墓場を一晩中さまよい歩く。
第5の地獄絵: 狂児の夢
絵師は自分の2人の子供たちについて語る。
娘の狂子は部屋で動物の死体を写生したりして遊んでいる。
狂子の弟の狂太は外を走り回り、動物の死体をおもちゃにして遊んでいる。
2人はけんかをすることもあるが、普段は仲良く暮らしている。
2人は斬首を見物しながら一緒に歌を歌っている。
第6の地獄絵: 地獄宿
絵師は自分の妻について語る。妻は表通りで地獄宿という居酒屋をやっている。
地獄宿の客は全員、墓場からやって来た首無し死体の亡者たちである。
第7の地獄絵: 刺青三代(PART1: 大蛇丸)
絵師は自分の祖父について語る。
絵師の祖父は全国の賭場を渡り歩く流れ者の博打打ちだった。祖父は上州(現在の群馬県)やくざで、背中に大蛇の刺青をしていたため、「利根(群馬県)の大蛇丸」という異名をとっていた。
祖父の家族は極貧だった。祖母が畑を耕してなんとか家計を支えていた。
祖父は酒に酔っては祖母に暴力を振るったため、絵師の父とその姉は祖父を憎んでいた。
ある雪の日の夜、祖父は賭場のいざこざに巻き込まれて血みどろになって死んだ。祖父がドスで自分の腹を切り裂くと、傷口から大量のサイコロが吐き出された。
祖母はその年の春に変質者に惨殺された。
絵師の父と姉はそれぞれ別々に奉公に出された。
第8の地獄絵: 刺青三代(PART2: 紅蝙蝠)
絵師は自分の父について語る。
絵師の父は背中に紅蝙蝠の刺青をしていた。
父は祖父と同じ道を辿り、流れ者となった。
父は満州に渡り、そこで所帯を持った。
父は養豚場を始めたが、日本と中国の戦争が始まり、軍隊に召集された。
父は早く戦争に勝って人並みの生活に戻るために戦場で人を殺し続けたが、広島への原爆投下がすべてを吹き飛ばした。
父とその家族は日本への引き揚げ時に生き地獄を体験し、母は発狂した。
絵師の父は酒を飲むといつも絵師に暴力を振るった。
その頃、絵師の父は屠場で働いていた。
ある雪の日、絵師は父が地獄川で死んでいるのを見つけた。絵師は父の背中から紅蝙蝠が飛び去ってゆくのを見た。
第9の地獄絵: 刺青三代(PART3: 昇り竜)
絵師は自分の弟について語る。
絵師の弟は飲んだくれで、背中に昇り竜の刺青をしていた。
弟はケンカに明け暮れる非行少年だった。
祖父と同じく、弟は地獄川のほとりで雪に埋もれて仮死状態で発見された。頭を割られていた。
弟は脳の手術を受けて一命を取り留めたが、昏睡状態に陥り、二度と目覚めることはなかった。
退院の翌朝、弟は昇り竜の刺青が残ったまま肉の塊になっていた。
第10の地獄絵: 母狂人
絵師は自分の母について語る。
絵師が子供の頃、母は正気を失っており、絵師に激しい暴行を加えていた。
絵師の母は現在、豚の首を自分の息子だと思い込んでおり、肉の塊と化した絵師の弟を虐待している。
第11の地獄絵: 幻の帝国
絵師は自分の生まれ故郷の満州国における日本の敗戦後の生き地獄に思いを馳せる。
1945年8月6日、広島の空に閃光と轟音を従えて巨大な地獄の大魔王が出現し、数百万の人間の生き血を吸った。
閃光の中から一条の光の帯が飛び立ち、朝鮮半島を越えて満州の地に現れ、絵師の母を襲った。その刹那、絵師は母の胎内に宿った。
母の胎内で、絵師はロシア兵の侵入で始まった血みどろの地獄を見ていた。虐殺、略奪、シベリアへの捕虜の強制連行。
1946年に絵師は誰にも祝福されずに生まれた。
9か月後、雪の中で絵師の両親は絵師を連れて日本への引き揚げ者の行列の中にいた。飢えと寒さの中で、行列について行けない赤ん坊や病人、老人は絞め殺され、毒殺され、あるいは自害した。
疲労と恐怖の極限状態の中で、絵師の母は発狂した。
第12の地獄絵: 童夢の時代
絵師は自分の幼少期を回想する。
絵師は子供の頃、動物を虐殺し、それを絵に描いて遊ぶ地獄遊びをしていた。
絵師は近所に住む不良兄弟にいつもいじめられていた。絵師は不良兄弟の家が火事になれば素晴らしい地獄絵が描けるのにと思った。
絵師は粘土で地獄の大魔王(原爆投下時のキノコ雲)の模型を作り、いけにえの動物の生き血を注いで、不良兄弟の家よ火事になれと願いをかけた。
すると、不良兄弟の家が火事になり、不良兄弟とその家族は家もろとも灰と化した。絵師は自分の素晴らしい能力を発見して狂喜した。
それ以来、絵師は何十万もの人間を殺しながら地獄絵を描き続けている。
第13の地獄絵: 終末地獄変
絵師はもっとスケールの大きい、本当の地獄絵を描きたいと思う。
絵師はフォークランド紛争(1982年)を引き起こして、自分の能力が外国にも及ぶことを証明する。
絵師の本当の狙いは、世界中のすべての核兵器のボタンを押させて作動させることだった。
そうすることによって、絵師は自身のライフワークである本物の大地獄絵を描こうとする。
絵師は本当の地獄が来る前に愛する家族を斧で殺すが、実は絵師の妻と子供たちと母は作り物(人形)であり、絵師の弟は豚の死骸だった。
絵師は外に出て、雪の中で地獄の赤い実を食べる。
絵師は家の前の塀に斧を投げつけて塀を壊す。
壊れた塀の向こう側には血の海が広がっている。
血の海のなかで絵師は家族のビジョンを影絵として幻視する。
絵師は大量の血を吐き、この世の終わりの地獄絵を描くと言う。
絵師は、この世の終わりが来て、地獄の悪鬼である絵師以外のすべての人間が死ぬと言う。
絵師は読者に向かって「君は死ぬ!」と宣告する。
絵師は「みんな死ね!」と叫びながら読者に向かって斧を投げつける。