『実在の織物: 並行宇宙の科学とその含意(The Fabric of Reality: The Science of Parallel Universes – and Its Implications)』は、量子コンピュータの研究で知られるイギリスの物理学者のデイヴィッド・ドイッチュの本。1997年にViking Adultから出版された。
1999年に朝日新聞社から出た邦訳のタイトルは『世界の究極理論は存在するか―多宇宙理論から見た生命、進化、時間』。
ドイッチュは本書で、量子物理学、ポパー的な認識論、ダーウィン/ドーキンスの進化論、テューリングの計算理論を統合し、実在世界を統一的に理解するという自説を展開している。
量子コンピュータという実用的な分野の専門家が書いた本にしては妙に思弁的で、SF小説のようにぶっ飛んだ内容である。
ドイッチュは量子力学の多世界解釈に基づく並行宇宙説(多元宇宙論の一つ。この宇宙を互いに分岐する無数の並行世界の一つにすぎないと想定する)を真面目に主張しており、過去への時間遡行による歴史改変のパラドックス(いわゆる「祖父殺しのパラドックス」)は並行宇宙説で解消できるとしている。
コペンハーゲン解釈に従って、量子力学を単に実用的な計算技術として扱う人々にとっては、このような反証不可能な議論は無益な思弁にすぎないかもしれないが、多世界解釈と並行宇宙説は理論的な仮説としては面白いと思う。
一方、生命と知性の進化が宇宙にとって基本的な要素であるとするドイッチュの主張には疑問を感じた。ジャック・モノーが『偶然と必然』(1970年)で述べたように、地球上における生存機械(リチャード・ドーキンス)としての生命の誕生と進化は、無目的な偶然の連鎖の結果であって、この宇宙の必然ではないように思えるし、もし無数の並行宇宙が実在するなら、生命が存在しない宇宙もあり得るのではないか。
最終章でドイッチュは、数理物理学者のフランク・ティプラーが提唱したオメガ点宇宙論を、ティプラーがオメガ点をユダヤ・キリスト教の教義における神と同一視していることを批判しつつも、自説にまともに導入している。
オメガ点はピエール・テイヤール・ド・シャルダンが最初に提唱した概念で、神によって統一される宇宙の万物の最終点、人類の進化の究極点を意味する。
ドイッチュによると、宇宙の終焉(ビッグクランチ)において、全知全能の知性コンピュータが無限の計算資源とともに無限の計算能力を持ち、宇宙全体を仮想現実として永遠にエミュレートし、死者の復活もありうるという。
オメガ点理論は、レイ・カーツワイルの技術的特異点仮説と同じく、AIを神と見なす一種の神学あるいは数学的形而上学であり、テイヤールのキリスト教的進化論のコンピュータ時代のアップデート版ではないかと思う。
上記のように疑問点も多いが、思考を刺激させられる本である。ジェイムズ・P・ホーガンやグレッグ・イーガンのハードSF小説を好む方におすすめ。