概説
『サウルの息子(Saul fia)』は、ネメシュ・ラースロー監督の2015年のハンガリーの史劇映画である。ラースローの長編デビュー作である。
第2次世界大戦中のアウシュヴィッツ強制収容所を舞台に、ハンガリー人のゾンダーコマンド(ガス室で殺害された犠牲者の死体処理を強制された囚人たちの労務部隊)の身に起こる一日半の出来事を、手持ちのカメラを用いた独特のカメラワークで描いている。
言語はドイツ語、ハンガリー語、ポーランド語、イディッシュ語、ロシア語、スロバキア語、チェコ語、ギリシア語。107分。
あらすじ
1944年10月、ハンガリー系ユダヤ人の囚人、サウル・アウスランダー(ルーリグ・ゲーザ)は、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でゾンダーコマンドとして働いていた。サウルの仕事は、犠牲者たちをガス室に誘導し、死者の衣服から貴重品を回収し、ガス室から死体を引きずり出し、次の集団がやって来る前にガス室を洗浄することだった。
ある日、サウルはガス室の死者たちの中に、まだ生きていて息がある一人の少年を発見する。サウルはその少年を自分の息子だと思い込む。ナチスの医師は少年を窒息死させ、囚人の医師のミクローシュ(ジョーテール・シャーンテル)に少年の検視解剖を命じる。
サウルは少年をユダヤ教の正式な流儀で埋葬してやりたいという思いに取りつかれる。サウルはミクローシュに、少年を解剖しないでくれと頼む。ミクローシュはそれを断るが、今夜少年と過ごす時間を5分だけやると言う。
サウルは少年のために埋葬の儀式を執り行ってくれるラビを探し始める。
ゾンダーコマンドのアブラハム(モルナール・レヴェンテ)は武器を集めてナチスの親衛隊に対する反乱を準備していた。一方、カポ長のビーデルマン (ユルス・レチン)は、収容所の残虐行為を写真に撮り、写真を外部に流すことによって外部に助けを求めようとしていた。
サウルは友人のヤンクル(フリッツ・アッティラ)から、別のゾンダーコマンドの部隊に「背教者」と呼ばれている、信仰を捨てたギリシア人のラビがいるという話を聞く。
外でラビを探すために、サウルはビーデルマンに写真撮影の手伝いを申し出る。サウルはビーデルマンの同志のカッツ(パイオン・イシュトヴァーン)とともに、錠前の修理を装って死体焼却場の近くの小屋を訪れる。サウルが錠前を直すふりをしている間に、カッツは死体焼却の写真を撮る。
サウルは別のゾンダーコマンドの部隊のトラックに潜り込み、トラックの中で「背教者」を発見する。トラックは近くの川岸に到着し、ゾンダーコマンドたちは死体焼却場の灰を川に捨て始める。
サウルは背教者に助けを求めるが、背教者に断られる。サウルは背教者を脅して手伝わせようとするが、背教者は再び断る。サウルと背教者は親衛隊曹長に尋問される。サウルは自身の部隊に帰ることを許されるが、背教者は処刑される。
ミクローシュは少年の死体を解剖室に隠していた。サウルは解剖室に忍び込み、死体を袋に入れて自分の兵舎に持ち帰る。
サウルはアブラハムに、エラという名の女性囚人(ヤカブ・ユリ)から火薬の包みを受け取るようにと指示される。女性収容所でエラから包みを受け取った後、サウルは新たに到着したハンガリー系ユダヤ人たちの大群に遭遇する。彼らは処刑のために森に連れていかれる途中だった。サウルは群衆の中でラビを探す。ブラウンと名乗る男(トッド・チャーモント)がサウルに近づいて来て、自分はラビだと言う。サウルはブラウンをゾンダーコマンドに見せかけて収容所に連れて帰る。
翌朝、ビーデルマンとその部隊がSSにガスで殺されたことを知ったアブラハムは、他の囚人たちとともに反乱を開始し、ナチスの親衛隊を攻撃する。
サウルは少年の死体を抱えて、ブラウンとその他の囚人たちとともに収容所を脱出して森に逃げ込む。
サウルは川辺で少年の死体を埋葬しようとするが、ブラウンはカッディーシュを唱えることができない。サウルはブラウンがラビではなかったことを知る。
ナチスの親衛隊が迫ってくるのを察知したサウルは川に逃げ込み、少年の死体は川に流されてしまう。
サウルは他の囚人たちとともに森の中の納屋に身を隠し、ポーランドのレジスタンスとの合流を画策する。サウルは農民の少年が納屋の中を覗き込んでいるのを見つける。サウルは少年に微笑みかける。少年が立ち去った後、ナチスの親衛隊は納屋に向かい、森の中で銃声が響く。
解説
『サウルの息子』のストーリーは、ゾンダーコマンドの隊員の証言を集めた本『The Scrolls of Auschwitz』(1985年)から着想を得ている。
本作における反乱のエピソードは、1944年10月にアウシュヴィッツで実際に起こったゾンダーコマンドの反乱の史実に基づいている。
本作はその特異なカメラワークが特徴である。ほぼ全編に渡って、手振れの激しい手持ちのカメラが、主人公のサウルとその視界を、浅い被写界深度と狭い視野、長回しのショットで追い続ける。意図的に狭められたイメージが、音響と観客の想像力によって補完される。この極めて主観的なカメラワークが、本作にドキュメンタリー映画のような迫真性と臨場感を与えている。
本作では、サウルは人間性をほぼ喪失した人物として描かれており、少年の死体を埋葬したいという思いがサウルの心にわずかに残っている人間性の表れとして描かれている。
本作は、ホロコーストを悲劇としてドラマ化するのではなく、アウシュヴィッツにおける人間性の抹殺の恐怖を観客に体験させるという点で、貴重な映画である。
本作は、2015年のカンヌ国際映画祭のグランプリ、第88回アカデミー賞の外国語映画賞、第73回ゴールデングローブ賞の外国語映画賞などを含む数多くの賞を受賞した。