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スタニスワフ・レム『完全な真空』(1971年)

概説

『完全な真空』(Doskonała próżnia)は、ポーランドの作家スタニスワフ・レムが1971年に発表した作品集である。実在しない16冊の書物についての架空の書評、および著者自身による自著(本書そのもの)の書評の計17篇で構成されている。

ただし、『我は僕(しもべ)ならずや』は同年に短編集『不眠』(Bezsenność)に収録された作品であり、本書の1971年のポーランド語初版には収録されず、その後の版で追加されたものである。

個々の書評は、それぞれ異なる架空の著者・架空の刊行元を設定したうえで書かれており、対象となる書物のジャンルも、SF小説、ヌーヴォー・ロマン、文化哲学の論考、ノーベル賞受賞記念講演の記録など多岐にわたる。

この形式――実在しない書物についての批評を書くこと――自体はレムの独創ではなく、ホルヘ・ルイス・ボルヘスをはじめとする先行例が存在する(詳細は「影響」の節を参照)。しかし、そうした架空書評のみを収めた一冊の作品集としてこれを構成した点に、『完全な真空』の形式上の特異性がある。各篇は、実際に長篇小説として書かれ得る規模のプロットと設定を持ちながら、意図的にその「要約」としてのみ提示されており、この圧縮の手続き自体が本書の方法論の核をなしている。

本書はレムの作品群のなかでも、この「実在しない書物へのアポクリファ」(Apocrypha、ポーランド語でapokryfy。原義は正典に含まれない文書群、いわゆる外典を指す語)と呼ばれる形式の最大の到達点として位置づけられる。この呼称は後年アゴラ社(Agora SA)が刊行したレムの全集『Dzieła』においても、本書や『虚数』『挑発』『21世紀の図書館』をまとめて収める巻の名としてそのまま採用されており、レムがこの形式を自らの創作のなかで一つの独立したジャンルとして自覚的に扱っていたことがうかがえる。

本書は発表後、英語をはじめとする多数の言語に翻訳され、レムの国際的な評価を確立した作品の一つに数えられている。

著者略歴

スタニスワフ・レム(Stanisław Lem)は1921年9月12日、当時ポーランド領であったルヴフ(現ウクライナ・リヴィウ)に、医師サムエル・レムの子として生まれた。ルヴフ大学で医学を学び始めるが、第二次世界大戦とナチス・ドイツによる占領によって学業は中断される。ユダヤ系の出自を隠す偽造書類によって生き延び、自動車整備工・溶接工として働きながら戦禍をくぐり抜けた。

戦後、ルヴフがソ連領(ウクライナ)に併合されたことに伴い、レムの一家はクラクフへ移住し、レムはヤギェウォ大学で医学の勉強を再開した。最終試験をあえて受けずに医師免許の取得を放棄したのは、軍医として従軍する道を避けるためだったとされる。この医学生としての経験は、生物学・統計学・確率論・論理学・心理学・天文学にわたる幅広い知識としてレムのその後の作品に色濃く反映されることになる。

1946年に短篇「火星から来た男」で文壇デビューし、1951年の長篇『宇宙飛行士たち』(Astronauci)で作家としての地歩を固めた。1961年の『ソラリス』(Solaris)は代表作として世界的な評価を確立し、のちにアンドレイ・タルコフスキー(1972年)、スティーヴン・ソダーバーグ(2002年)によって映画化されている。『インヴィンシブル』(Niezwyciężony)、『エデン』(Eden)、『泰平ヨンの航星日記』(Dzienniki gwiazdowe)、『泰平ヨンの未来学会議』(Kongres futurologiczny)、諧謔的な連作『サイバリアード』(Cyberiada)、そして未来学・技術哲学の主著『技術大全』(Summa Technologiae)など、SF小説から哲学的エッセイまで多岐にわたる仕事を残した。1970年代以降は、実在しない書物を論じるという本書のような「アポクリファ」の形式にもしばしば取り組んでいる。

2006年3月27日、クラクフにて84歳で死去。

出版の経緯・背景

『完全な真空』は1971年、ワルシャワのチテルニク社(Czytelnik)によりポーランド語で刊行された。レムは実在しない書物の「書評」という形式を、本書以前から折に触れて試みていたが、この形式だけで一冊をまるごと構成した点で『完全な真空』は最大の到達点となった。

レム自身の言葉によれば、彼はこの一冊で「書評、講義、プレゼンテーション、(ノーベル賞受賞者の)演説」など、さまざまな言説の形式を模倣することに挑んだという。虚構の書物についての批評を書くという迂回路を選んだ理由について、レムは後年、小説を一篇まるごと書き上げるという「平凡な職人仕事」に多くの時間を費やすよりも、要約や序文というかたちで思考実験のアイデアそのものを提示するほうが効率的であったと述べている。実際、本書に収められた各篇は、それぞれが独立した長篇小説になり得るだけのプロットと設定を持ちながら、意図的に「批評される対象」の圧縮された要約としてのみ提示されている。

書誌情報

  • 原題:Doskonała próżnia
  • 初版:Czytelnik(ワルシャワ)、1971年
  • 構成:架空の書物16冊についての書評、および著者自身による自著(『完全な真空』そのもの)の書評の計17篇。ただし『我は僕(しもべ)ならずや』は1971年のポーランド語初版には収録されておらず、同年刊行の短篇集『不眠』(Bezsenność)にて先に発表され、後の版に追加されたものである。
  • 2008年にアゴラ社(Agora SA)よりレム全集(『ガゼタ・ヴィボルチャ図書館』叢書第9巻)の一冊として再刊され、この版にはヤツェク・ドゥカイによる補遺「誰がスタニスワフ・レムを書いたか?」(Kto napisał Stanisława Lema?)が併録された。

翻訳の状況

概況

『完全な真空』の外国語への翻訳は、原著刊行から間もない時期に始まっている。最初期の翻訳は、原著刊行のわずか2年後である1973年に現れたドイツ語版(インゼル社)とロシア語版(モロダヤ・グヴァルディヤ社)であり、いずれも英語版(1979年、ハーコート・ブレイス・ジョヴァノヴィッチ社、訳:マイクル・カンデル)に先行している。1970年代にはこれに続いてスウェーデン語版(1975年)が、1980年代にはスペイン語版(1981年)、チェコ語版(1983年)、日本語版(1989年)、イタリア語版(1990年)が刊行されている。ロシア語版はソ連崩壊後も版を重ね、2000年代以降も複数の新版が出版された。2000年代以降はさらに中国語版(2005年)、ブルガリア語版(2009年)、トルコ語版(2014年)などが加わり、本書は現在までに十以上の言語に翻訳されている。

日本語訳

日本語への紹介は、全篇(17篇)を収めた単行本の刊行に先立ち、1970年代から1980年代にかけて個々の篇の翻訳が雑誌媒体を通じて段階的に進められた。

全篇を収めた単行本としての日本語版は、沼野充義・工藤幸雄・長谷見一雄の共訳により1989年11月、国書刊行会〈文学の冒険〉シリーズの一冊として刊行された。2020年には河出文庫として再刊されている。

評価

発表当時から、『完全な真空』は既存のジャンル区分に収まらない作品として評価された。『ニューヨーク・タイムズ』紙はレムを「宇宙時代のボルヘス」と評し、『デトロイト・ニュース』紙は「ハーポ・マルクスとフランツ・カフカとアイザック・アシモフを一つに融合させ、白いウサギの穴に放り込んだような作家」と評した。アンソニー・バージェスも『オブザーバー』紙上で、レムを「今日もっとも知的で博識、かつユーモラスな作家の一人」と評価している。

興味深いのは、この完全に虚構の産物であるはずの書物内の装置が、文学の外の議論にまで越境して使われている点である。「生の不可能性について」に登場する教授コウスカの名は、「二つの独立して極めて起こりにくい実際の出来事が同時に生じた場合、それらを独立事象として確率計算することの誤り」を指す「コウスカの誤謬(Kouska’s fallacy)」という概念として、医学誌『ランセット』の1986年の記事や小児神経学の教科書などで実際に引用されている。架空の書物のなかの架空の学者の名が、現実の学術的議論のなかで一種の思考の道具として流通するという事態そのものが、本書の主題である「虚構と実在の境界の攪乱」を、テクストの外側で反復して見せているとも言える。

影響

実在しない書物についての書評を書くという着想自体は、レム自身が明言しているとおり、彼の独創ではない。もっとも近い先例としてしばしば挙げられるのがホルヘ・ルイス・ボルヘスで、『伝奇集』所収の「ハーバート・クエインの作品の検討」はその代表例である。さらに遡れば、架空の書物を論じるという手法の系譜はラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』にまで、あるいはそれ以前にまで見出すことができるとされる。しかし、そうした架空書評だけを集めたアンソロジーを一冊丸ごと構想するという点は、レム独自の達成として広く認められている。

レム自身、この「実在しない書物へのアポクリファ」という形式を『完全な真空』一作限りで終わらせたわけではない。1973年の『虚数』(Wielkość urojona)は実在しない書物の「序文」だけを集めた続篇的な作品であり、1984年の『挑発』(Prowokacja)、1986年の『21世紀の図書館』(Biblioteka XXI wieku、英題One Human Minute)も同じ形式を発展させたものである。

後続世代への影響としては、ポーランドのSF作家ヤツェク・ドゥカイが2002年から2003年にかけて雑誌『サイエンス・フィクション』誌上で架空書評コラム「オルタナティブ書店」(Księgarnia alternatywna)を連載し、前述のとおり2008年版『完全な真空』にも補遺「誰がスタニスワフ・レムを書いたか?」を寄せている(ドゥカイ自身は、これをレムへの意図的な継承作品というより、独立して温めていた着想の発展形であったと述べている)。また、レムへのオマージュ・アンソロジー『Lemistry: A Celebration of the Work of Stanislaw Lem』(2011年)にも、フランク・コットレル=ボイスによる「レムが書評した架空のコットレル=ボイス作品」、およびドゥカイによる架空の「レムを模した死後のAI」をめぐる書評が、この形式へのオマージュとして収められている。

検索リンク

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内容(ネタバレあり)

『完全な真空』(スタニスワフ・レム)

全体の巻頭に置かれているのは、著者自身による『完全な真空』という「実在する」本の書評である。ここでレムが用いる仕掛けは、作品が自らの虚構性そのものを主題化する、いわゆるメタフィクションの典型例と言える。とりわけ際立つのは、実際には存在しないはずの序文「オート・モモス」への言及である。レムは、読者が今まさに手にしているこの実在の書物について論じながら、その書物には実は存在しない要素を、あたかも存在するかのように語ってみせる。本来であれば虚構の書物について語るはずの書評が、今度は実在する書物についても虚偽を語り出すことで、この自己言及的な誤記述そのものが『完全な真空』という本の実在性を宙吊りにし、本書全体を貫くメタフィクション的な枠組みを、巻頭から読者に呈示する構造になっている。

『ロビンソン物語』(マルセル・コスカ)

無人島に漂着した水夫セルジュ・Nが、孤独に耐えかねて空想のなかから召使や侍女を次々と呼び出し、秩序立った世界を築こうとするが、彼の想像力は制御を失い、島はやがて空想上の群衆でひしめき合うようになる。ロビンソナード(ロビンソン変形譚)の伝統を下敷きにしながら、純粋な理性によって世界を統御しようとする試みそのものの挫折を描く。

『ギガメシュ』(パトリック・ハナハン)

ギルガメシュ叙事詩に対する『ギガメシュ』の関係は、ホメロス『オデュッセイア』に対するジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の関係に等しい――という体裁で紹介される架空の小説。死刑執行を待つギャング「GIジョー」メイシュの最期の36分間を描く395頁の小説に、その2倍余りの長さ(847頁)に及ぶ註釈が付されており、この註釈は「ギガメシュ」という一語から人類の全知識体系への連関を執拗に暴き立てる。ジョイス研究者たちが長年かけて行ってきた『ユリシーズ』の注釈のような作業を著者自らが先回りしてやったという、学術的過剰さそのものへの痛烈なパロディである。

『性爆発』(サイモン・メリル)

性の完全な解放とその後にやってくる性欲そのものの消滅、そして代償行為としての「食のエロス化」――ある種の凝った食べ方が性的行為とみなされる一方、別の食べ方はタブー視される――を描く近未来SF。人類の性と欲望の変遷を、社会制度・商業主義・宗教的熱狂・道徳的義務・そして最終的な無意味化という段階を追ってシミュレートする。

『親衛隊少将ルイ十六世』(アルフレート・ツェラーマン)

南米に逃れた元ナチス親衛隊少将が、密林の奥地に革命前のフランス宮廷をまるごと再現するという奇怪な物語。雇われた俳優たちは次第に自分たちの演じる役柄そのものに同化していき、当の親衛隊少将本人が死んだのちも、宮廷という虚構は誰にも命じられることなく存続し続ける。作られた虚構が作者を必要としなくなる瞬間を描いた寓話とも読める。

『とどのつまりは何も無し』(ソランジュ・マリオ)

「列車は着かなかった。彼は来なかった……」という否定文の連鎖だけで構成された小説。否定に否定を重ね、語り手はひたすら後退を続ける。ヌーヴォー・ロマンの手法そのものを、その内的論理を極限まで推し進めることで無効化してしまう辛辣なパロディである。

『逆黙示録』(ヨアヒム・フェルセンゲルト)

すでに書かれた書物の膨大な量が一種の「情報公害」と化しているとし、1900年以降に刊行された書物をすべて廃棄すべきだと説く論争的な書物。真に価値ある作品が埋没するのを防ぐため、金銭や名声のために出版しようとする者を処罰する国際機関の設立を提唱し、代わりに作品を同機関へ送付させ、商業的成功の見込みがあると判断された場合には出版を差し控える対価として著者に助成金を支給するという逆説的な制度を構想する。

『白痴』(ジャン・カルロ・スパランツァーニ)

母・父・そして「白痴」の息子からなる三人家族を描く小説。両親は息子の引き起こす数々の問題を、その都度別様に解釈し直すことで、息子が白痴であるという事実そのものを認めまいとし続ける。レムはこの架空の小説を介して、ドストエフスキー『白痴』の主人公ムイシュキン公爵もまた、文字通りの意味で「白痴」にほかならなかったのではないかという、原作への皮肉な問いを忍ばせている。

『あなたにも本が作れます』

白紙のページと、名作からの断片を印刷した紙片一式からなる「文学のエレクター・セット(組み立て玩具)」。読者はこれらを自由に組み合わせて自分だけの「小説」を作ることができる。ダダイストやウィリアム・バロウズのカットアップ技法を思わせるこの製品は、しかし当の一般読者が名作そのものにさほど関心を持っていなかったために、商業的にはふるわなかったとされる。

『イサカのオデュッセウス』(クノ・ムラチェ)

マサチューセッツ州の架空の町イサカ出身の青年が、世に埋もれた天才を発掘するための組織を立ち上げる物語。彼は天才を三つの水準に分類する――生前から認められ名声を得る第三水準、あまりに時代に先んじていたため迫害され、何世紀ものちにようやく再発見される第二水準、そして人類の歴史そのものを変えうるにもかかわらず、誰にも聞き入れられなければ、歴史がその指し示す方向を素通りしてしまい永遠に意味を失う第一水準。この最後の水準の天才を探し出すことの原理的な不可能性が、物語の核心をなす。

『てめえ』(レイモン・スーラ)

「本を書きたいという欲求について書く本を書こうとする試みについて書く」といった具合に、作家がみずからの執筆過程そのものを暴露することで「真正性」を追求する現代文学の一潮流を踏まえた小説。しかしこの作品は、作者の内面へとさらに退却するのではなく、逆に読者へと正面から罵倒を浴びせるという反転した戦術を取る。ただし侮辱というものは受け手に合わせて個別に調整されて初めて効果を持つものであるため、不特定多数の読者に向けられたこの罵倒は結局失敗に終わる。

『ビーイング株式会社』(アリスター・ウェインライト)

個々人の人生上のあらゆる出来事――たとえば「列車事故から間一髪で救出される」といった一場面――までもがコンピュータによって精緻に立案され、商品として購入可能になった世界を描くSF。アメリカの独占禁止法により、この事業を担う企業は三社に分割されているが、各社が顧客に対して互いに矛盾する「人生の出来事」を演出しようとした結果、混乱が生じる。最終的にはコンピュータが企業自身の活動計画すら立案し始め、各社に互いのスパイが送り込まれるという皮肉な帰結に至る。

『誤謬としての文化』(ヴィルヘルム・クロッパー)

人間の文化とは、人類が抱える脆弱さや弱点を「より大きな計画の一部」であるかのように意味づけ直すための、一種の防衛機制にほかならないと論じる文化哲学の書。テクノロジーの進歩によって人間の身体的・精神的な強化が可能になりつつある現在、それに反対する人々が(意識的にせよ無意識的にせよ)現れるのは、もしそれが実現すれば、これまで人類が耐えてきた苦しみのすべてが実は不要だったことになってしまうからだ、と論じる。

『生の不可能性について』『予知の不可能性について』(ツェザル・コウスカ)

二冊まとめて論じられるこの書評は、著者コウスカ自身の出生の確率を、両親の出会いから遡って、紀元前250万年前の地殻変動にまで至る計算を試みる、確率論的な企てを紹介する。父が母と結婚するに至った経緯、二人が戦時中に出会った経緯、そのまた前提となる無数の偶然の連鎖――こうして遡行を続けるうちに、一つの出来事を変えれば無限に近い予測不能な帰結が生じるというバタフライ効果そのものが露わになり、最終的に「自分がこの世に生まれたこと」自体の確率論的な不可能性が数学的に「証明」されてしまう。続く『予知の不可能性について』は、未来学が確率論だけを基盤にすることはできないと論じる姉妹篇である。

『生の不可能性について』はレム自身の半自伝的な要素を含んでいる。レムは1984年の自伝的エッセイ「Chance and Order」(『ニューヨーカー』)で、父が第一次世界大戦中にロシア軍の捕虜となり、処刑されかけたところを偶然の助けで生き延びた実話を挙げ、この話は『生の不可能性について』に見出せる、と自ら述べている。

『我は僕(しもべ)ならずや』(アーサー・ドブ)

近い将来、権威ある科学雑誌に掲載されるであろう書評を思わせる乾いた文体で書かれた、人工知能をめぐる精緻な風刺。ジェイムズ・ドブ教授の著書『我は僕(しもべ)ならずや』を紹介するという体裁のもと、コンピュータ内部に「パーソノイド」と呼ばれる真に知的な存在をシミュレートによって創造する学問分野「パーソネティクス」の理論・歴史・現状が語られる。書評は「〔パーソネティクスは〕人間がこれまでに生み出したもっとも残酷な科学である」という引用から始まる。やがて書評子は、ドブ教授が記録したパーソノイドの哲学者アダン(ADAN)の議論を引用する――アダンは、未知の創造主に対して自分が何を負っているのかを思考し、自分自身が自由意志を持つ存在であると確信するに至る。「我は〔神に〕仕えず(non serviam)」という一句は、まさにこの自由意志の表明にほかならない。書評は最終的に、シミュレートされたこの世界をいずれ終わらせなければならないというドブ教授自身のジレンマの表明を引用して締めくくられる。創造主と被造物の関係、そして意識ある存在を創造し、また消去することの倫理をめぐる思考実験である。

この書評はダグラス・R・ホフスタッターとダニエル・C・デネットが編纂したアンソロジー『マインズ・アイ(原題:The Mind’s I: Fantasies and Reflections on Self and Soul)』(1981年)に転載された。

『新しい宇宙創造説』

ノーベル賞受賞者アルフレッド・テスタ教授の受賞記念講演という体裁で語られる、宇宙論をめぐる架空の学説。フェルミのパラドックス――なぜ我々は他の知的文明の痕跡を観測できないのか――への回答として、テスタは、この宇宙の物理法則そのものが、太古の昔から存在する複数の高度な文明(「プレイヤー」)による一種のゲームの産物であると論じる。プレイヤー同士は互いに直接コミュニケーションを取ることができないため、それぞれが独立に「負けないための」ミニマックス戦略を採用し、結果として全員が同じ戦略に収斂し、ナッシュ均衡と呼びうる安定状態を維持している。宇宙の膨張は新たな文明を互いに孤立させ均衡を乱させないための仕組みであり、光速の有限性は特定のプレイヤーによる支配や結託を防ぐための制約であり、時間の不可逆性は他のプレイヤーが過去の行動を取り消すことを防ぐための装置である、とテスタは説く。なお、テスタが言及する「同名の先行研究」の著者アリステイデス・アヘロプーロス(Aristides Acheropoulos)はレム自身を指す仮託的な人物であり、一種の自己言及であると解釈されている。