概説
『接吻』(せっぷん、英題:The Kiss)は、2008年公開の日本の犯罪ドラマ/サイコサスペンス映画である。
一家惨殺事件の犯人としてテレビに映し出された男の微笑に「自分と同じ孤独」を見いだした会社員の女性が、その男に傾倒し、獄中結婚に至るまでの過程を描く。女性と殺人犯、そして犯人の国選弁護人という三者の関係を軸に、他者に理解されることを求めない愛の行方を追い、衝撃的な結末へと至る。

監督は長編デビュー作『UNloved』(2002年)でカンヌ国際映画祭批評家週間に出品され、エキュメニック新人監督賞とレイル・ドール賞を受賞した万田邦敏。脚本は万田珠実と万田邦敏が共同で執筆し、プロデューサーは仙頭武則が務めた。
小池栄子が集中した演技で主人公の女性役を演じ、豊川悦司が殺人犯役を、仲村トオルが弁護士役を、それぞれ演じた。
第8回東京フィルメックス(2007年)のコンペティション部門に出品され、2008年3月8日に劇場公開された。第23回高崎映画祭で最優秀作品賞、第30回ヨコハマ映画祭で脚本賞と主演女優賞(小池栄子)を受賞している。
予告編
作品データ
- 製作:ジェネオン・エンタテインメント、ランブルフィッシュほか(接吻フィルムパートナーズ)
- プロデューサー:仙頭武則
- 監督:万田邦敏
- 脚本:万田珠実、万田邦敏
- 原案:万田珠実、万田邦敏
- 撮影:渡部眞
- 美術:清水剛
- 音楽:長嶌寛幸
- 照明:和田雄二
- 録音:臼井勝
- 主要キャスト:小池栄子(会社員の女性、遠藤京子)、豊川悦司(殺人犯、坂口秋生)、仲村トオル(弁護士、長谷川)、篠田三郎(坂口の兄、坂口辰巳)、大西武志(坂口に殺害された井上家の父親)ほか
- 言語:日本語
- フォーマット:35mmカラー、アメリカン・ビスタ(1:1.85)
- 配給:ファントム・フィルム
- 上映時間:108分
- 公開:2008年3月8日(日本)
プロットの概要
28歳の会社員・遠藤京子は、人付き合いが少なく、孤独な日々を送っている。ある夜、テレビのニュースで一家殺害事件の容疑者として逮捕される坂口秋生の姿を目にした京子は、カメラに向けられた坂口の笑みに強く惹きつけられる。坂口に自分と同じ孤独を見いだした京子は坂口に執着し、差し入れや手紙のやり取り、面会を通じて坂口との関係を深めていく。坂口の国選弁護人・長谷川は、京子の一途さに次第に惹かれていく。
坂口と京子は獄中結婚に至るが、坂口に死刑判決が下る。長谷川は控訴を表明し、京子はそれに強く反発する。
坂口の誕生日を間近に控えたある日、京子は長谷川とともに坂口と面会し、そこで予期せぬ行動に出る。
解説
制作の経緯・背景
万田邦敏は立教大学在学中から黒沢清らと自主映画制作に関わり、脚本家・助監督を経て長編デビュー作『UNloved』で国際的な注目を集めた。
本作の企画は、プロデューサーの仙頭武則が万田邦敏・珠実夫妻に「死刑囚との獄中結婚」をテーマにした脚本を提案したことに始まる。企画段階の仮題は『ノートブック』で、のちに現在の題名に改められた。
脚本は、『UNloved』でも共同で脚本を手がけた万田珠実が主に執筆し、万田邦敏が映画的な調整を加える形で共同執筆された。
撮影は梅雨時に行われ、曇天が続いたことが作品の画面の質感に寄与した。万田は絵コンテを描かず、カメラを2台から3台用いて同じ芝居を角度を変えて繰り返し撮影し、カット割りは編集段階で決めたという。
演出手法
本作は、説明的な台詞や心理描写を極力削ぎ落として俳優の身体の動きを重視し、空間の切り取り方(フレーム)の厳密さによって感情のサスペンスを生み出している。
特に坂口と京子が向かい合う拘置所の面会室の場面では、ガラスという物理的障壁が画面の中心に置かれ、視線の交錯と手の接触が強調される。
音楽は抑制的に用いられ、沈黙と環境音が支配的である。
坂口と京子が向かい合う拘置所の面会室は、姿勢の変化が乏しく空間も狭いため、切り返しか二人を収めるショットのいずれかで撮るしかない場面であった。万田はこの制約のなかでショットに変化をつけることに苦心したと述べている。また、刑務官が同席する現実に即しつつも、画面上は刑務官を端に置くなど、一部は虚構化している。
長谷川と京子が坂口の兄を訪ねた帰りの田園の場面では、細かく割ったカットの後に、二人を小さく収めた引きの画が置かれる。万田は、プロデューサーから「寄りの画はあるが引きの画がない」と指摘されたことへの応答としてこの画を撮ったと述べている。曇天の下で二人が遠景に置かれたこの画は、広い風景にありながらも閉塞した印象を与える。
長谷川が控訴を発表する記者会見でカメラを見据え、京子がその映像をテレビで見て怒りを覚える場面は、序盤で坂口が逮捕時にカメラ目線で笑みを浮かべる場面と対になる反応として設計されたと万田は語っている。
終盤の坂口の誕生日の面会場面では、緊張した状態から一転して身体的な激しい動きへと移行する。ナイフによる凶行とそれに続く接吻は、ほぼ活劇的な身体の連鎖として演出され、説明的な心理描写を排している。
テーマ分析
本作は、殺人犯への傾倒という題材を通して、恋愛感情の根底にある自己愛が他者に向けられたときに生じる、一方的で非対称的な愛を描いた作品として鑑賞できる。
京子は坂口の犯行の動機や内面を「理解」しようとするのではなく、その存在に自らの孤独を重ね、坂口を自己の分身であるかのように捉えて、一方的に執着し、依存していく。
京子の坂口に対する執着は、相手が自分をどう思うか、また第三者からどう思われるかとは一切関係がないという点で純粋だが、心を通わせて互いを理解し合うという一般的な恋愛の枠組みからは外れている。
このような関係は、精神分析的には、他者を自己の心理的機能を補う存在——ハインツ・コフートの言う自己対象(self-object)——として利用する病理や、自己と他者の境界が曖昧になり相手を自己と同一視する自己愛的な同一視(narcissistic identification)として捉えることができる。
京子は坂口を、独立した人格を持つ他者としてではなく、自分の孤独や不安を埋める存在として捉える。同一視した相手が思い通りに動かないときに激しい怒りや絶望が生じるというこの種の関係の力学は、長谷川が控訴を表明した際に京子が怒りをあらわにする場面にも見て取れる。このような京子の一方的な関係のあり方は、周囲の人物とはことごとく噛み合わず、そのずれが物語を駆動する。
三者の関係も、愛情が一方向に流れる非対称な構図になっている。坂口は京子を自分の理解者として受け入れるが、坂口は京子にとっては自己愛の投影の対象でしかなかったために二人の関係は破綻する。弁護士の長谷川は坂口のために弁護を行うが、坂口が更生の意思を持たずに死刑を望んだため、坂口と信頼関係を築くことができない。長谷川は京子の身を案じて京子に忠告を重ねるが、長谷川は京子にとっては、利用価値はあるが疎ましい存在でしかない。
後述の蓮實重彦による評価のように、本作を純愛をテーマとする恋愛映画として鑑賞することも可能であるが、どう受け止めるかは観客次第である。
「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」
本作には「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」(Happy Birthday to You)が歌われる場面が二つある。坂口が殺人現場で歌う場面と、結末部の仕切りのない部屋での面会時に京子が歌う場面である。
一つ目の場面は、劇中では坂口の夢の中での回想として挿入される。井上家で一家三人を殺害した坂口は、居間で三人の遺体を食卓を囲むように座らせ、暗闇の中でたくさんの蝋燭を灯して、呟くように「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」を歌う。
二つ目の面会の場面では、坂口の誕生日を祝うふりをしてナイフによる凶行に及ぼうとする京子が、坂口を反復するかのように「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」と歌う。
いずれの場面においても、歌詞から「ディア(名前)」が欠落しており、祝福の歌が他者の拒絶、またはコミュニケーションの不可能性を象徴するものとして反語的に用いられている。
接吻の解釈
本作の終盤で京子が長谷川に襲いかかり、唐突に濃密な接吻を交わす場面は、その解釈を巡って公開当時から観客や批評家の間で議論を呼んだ。作中では京子の動機が説明されないため、観る者によって解釈が分かれている。
この接吻は愛情の表現とは考えにくいため、殺意の延長線上にある暴力的な接触、または身体による言語的コミュニケーションの拒否のような動機が考えられる。あるいは、坂口から長谷川への欲望の急激な移行、もしくは救済を拒否する身振りとして読む立場もある。
公開
本作は第8回東京フィルメックス(2007年)のコンペティション部門に出品された。2008年3月8日にユーロスペースほかで全国順次公開され、配給はファントム・フィルムが担当した。
国際的には全州国際映画祭2008のオープニング作品として上映された。
評価
本作は第23回高崎映画祭で最優秀作品賞を受賞し、第30回ヨコハマ映画祭では万田邦敏と万田珠実が脚本賞を、小池栄子が主演女優賞を受賞した。小池は第63回毎日映画コンクールでも主演女優賞に選ばれている。
本作は映画雑誌『キネマ旬報』の第82回ベストテン(2008年度)で9位に選出された。
批評家の蓮實重彦は、2007年の東京フィルメックスでの上映時に万田とともに行ったトークイベントで本作を「究極の恋愛映画」と評し、小池栄子の演技を高く評価した。
ホームメディア
日本国内では、2009年2月25日にジェネオン・エンタテインメント(現:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)からDVD『接吻 デラックス版』が発売された。特典として、メイキング、初日舞台挨拶、劇場予告篇が収録されている。
検索リンク
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あらすじ(ネタバレあり)
事件
坂口秋生は閑静な住宅街にある井上家に押し入り、一家三人を鈍器で殺害する。坂口は井上家から奪ったキャッシュカードでATMから現金を引き出し、警察とテレビ局に自分の身元と居場所を自ら通報して、多摩川の河川敷で自分が逮捕される様子をテレビで生中継させる。
出会い
遠藤京子は28歳の独身の会社員である。家族とも疎遠で友人もなく、同僚から押しつけられた仕事を一人で残業して片づけてから帰宅するような孤独な日々を送っている。ある夜、夕食後に台所で皿を洗っていた京子は、何気なくつけていたテレビのニュースで、逮捕された坂口の姿を目にする。坂口はカメラに向かって微笑んでいた。京子はその無言の笑顔に自分と同じ孤独と絶望を見いだして惹きつけられ、その夜から、新聞や雑誌で知ることのできる坂口の情報をすべてノートに記録し始める。
裁判と差し入れ
坂口は警察に逮捕された時に犯行を認めたが、その後は黙秘に転じ、国選弁護人の長谷川にも裁判官にも何も語らず、沈黙を守り続ける。京子は初公判から裁判を傍聴し、「あの人の声が聞きたい」と思うようになる。京子は長谷川に、自分のことを坂口に伝えてほしいと依頼し、坂口への差し入れと文通を始める。
坂口の兄を訪問
長谷川は京子とともに群馬県に暮らす坂口の兄を訪ね、坂口の兄から坂口の生い立ちを聞く。坂口の兄は、坂口が貧しい母子家庭でネグレクトされて育ったことを語り、坂口が死刑判決を受け入れることを望むと言う。
帰り道、二人は田園のなかで車を降り、歩きながら言葉を交わす。
死刑判決と獄中結婚
一審で坂口に死刑判決が下る。死刑が確定すると親族と弁護士以外は面会ができなくなるため、京子は手紙で坂口に結婚を申し込む。
京子は会社を辞めて拘置所の近くに引っ越し、石鹸工場で働き始める。京子は坂口と面会し、坂口は京子の求婚を受け入れる。
長谷川は京子の将来を心配し、京子に坂口との結婚を思いとどまるようにと説得するが、京子の意志は揺るがない。
京子と坂口はガラス越しの面会室で親密な時間を過ごす。京子が石鹸の匂いのする手をガラスの穴に近づけると、坂口も手を重ねる。
「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」
坂口は拘置所で就寝中に、井上家で三人を殺害した後の出来事を夢の中で回想する。坂口は居間で三人の遺体を食卓を囲むように座らせ、暗闇の中でたくさんの蝋燭を灯して、呟くように「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」と歌う。
長谷川のリーク
長谷川は、京子が世間から非難される立場になれば坂口から離れるかもしれないと考え、京子のことを雑誌記者に漏らす。京子は報道関係者に追い回されるようになるが、そのことによって逆に、坂口とともに社会に敵対する立場を貫くという意志が強固になる。
坂口は拘置所で就寝中に、殺害した三人が独房の前に亡霊のように立っている夢を見る。
控訴
長谷川は坂口に控訴を勧める。坂口は長谷川に、自分は人を殺したのに何も感じない人間であり、死刑になるべきだと言うが、長谷川は控訴の手続きを進めると告げる。
長谷川は記者会見で控訴する旨を発表する。会見の場で長谷川は、カメラ越しに京子を見据えるように視線を向ける。坂口が自分に相談せずに控訴に同意したことを自分への裏切りと感じた京子は、強い怒りと悲しみを抱く。
最後の面会
坂口の誕生日を間近に控えたある日、京子と長谷川は坂口との面会のために拘置所へ向かう。道中で京子は長谷川にプレゼントを渡す。
特別に仕切りのない状態での面会を許可された京子は、拘置所の一室で坂口に誕生日祝いのケーキを差し出し、蝋燭に火を灯す。京子はゆっくりと間歇的に「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」を歌いながら、長谷川の鞄からプレゼントを抜き取る。それはナイフだった。
京子は坂口を抱き締めてナイフで坂口の胸を刺し、坂口は絶命する。
京子は長谷川に襲いかかり、唐突に長谷川に接吻する。看守に取り押さえられ、連行されていく京子に向かって、長谷川は「京子さん、僕が弁護する。いいね?」と呼びかけ、京子は「私のことどうにかしようなんて思わないで。放っといて!」と叫ぶ。
