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SHOAH ショア(1985年)

概説

『SHOAH ショア』(原題:Shoah)は、クロード・ランズマン監督による1985年のフランスのドキュメンタリー映画である。ホロコースト(第二次世界大戦中にナチス・ドイツがヨーロッパのユダヤ人に対して行った大量虐殺)の実相を、生存者、加害者(元ナチス親衛隊員ら)、目撃者(現地ポーランド人住民ら)へのインタビューのみによって構成し、いわゆる記録映像(アーカイブ映像)を一切用いずに描き出した作品である。

上映時間はバージョンによって多少前後するが、クライテリオン・コレクション版などの収録時間によると、全体で約9時間26分(566分)である。

監督・脚本・インタビュアー:クロード・ランズマン。

製作:レ・フィルム・アレフ(Les Films Aleph)、イストリア・フィルムズ(Historia Films)。フランス文化省の助成を受けている。

撮影:ドミニク・シャピュイ、ジミー・グラスバーグ、ウィリアム・リュプチャンスキー、フィル・グリース、ほか。

編集:ジヴァ・ポステク(トレブリンカのシークエンスの一部はアンナ・ルイスが担当)。

言語:フランス語、ドイツ語、英語、ポーランド語、ヘブライ語、イディッシュ語(詳細は後述「言語と通訳」の項を参照)。

通訳:ポーランド語からフランス語への通訳をバルバラ・ヤニツカが、ヘブライ語通訳をフランシーヌ・カウフマンが、イディッシュ語通訳をアプフェルバウム夫人が務めた。

配給:ニューヨーカー・フィルムズ(米国)。

国:フランス。

フォーマット:16mmフィルム撮影、カラー、アスペクト比1.37:1(資料により1.33:1と表記される場合もある)。

予告編

作品の概要

本作にドラマ的な「筋」は存在しない。ランズマンは、かつてヘウムノ、ソビブル、トレブリンカ、アウシュヴィッツ=ビルケナウといった絶滅収容所があった現在のポーランドの土地を訪ね、当時を知る生存者・元ナチス関係者・地元住民に取材を重ねていく。証言は年代順や地理順に整理されるのではなく、反復と連想によって組み合わされ、過去の出来事がインタビュー対象者の現在の語りを通じて立ち上がってくる構成になっている。中心となるのは、ヘウムノでのガス・トラックによる殺害、トレブリンカとアウシュヴィッツ=ビルケナウでのガス室による殺害、そしてワルシャワ・ゲットーの実態と蜂起である。

解説

制作の経緯・背景

本作の起点は、1973年にイスラエル外務省の高官アルフ・ハレヴェンがランズマンに接触し、ホロコーストについての映画製作を持ちかけたことにある。ランズマンは前作『なぜイスラエルか(Pourquoi Israël)』(1973年)を完成させたばかりだった。当初の条件は、上映時間2時間程度、製作期間18か月というものであったが、ランズマンはこの条件を守れないことを自覚しつつ依頼を引き受けたとされる。

実際には、350時間を超える生の撮影素材が蓄積され、調査対象国は十数か国に及んだ。当初の出資元であったイスラエル政府は、製作の長期化に伴い支援を打ち切ったとされ、その後はフランス文化省の助成や各種の資金調達によって製作が継続された。編集作業だけでもおよそ5年を要し、企画から完成までは合計で11〜12年に及んだ。

ランズマンは過去の記録映像や再現ドラマ、感傷的な音楽を一切用いず、証言者への直接インタビューと、収容所跡地・鉄道・森など現在の風景の撮影のみで作品を構成するという方針を貫いた。これは、絶滅そのものについて視覚的な記録がほとんど残されていないという事実的な制約であると同時に、「不在」そのもの、すなわちかつてそこにいた人々の痕跡の消去を映像化しようとする作家的な選択でもあった。

インタビューの手法をめぐっては、元SS隊員フランツ・ズーホメルへの取材が特に知られている。ズーホメルは撮影を拒否したため、ランズマンは撮影しないと約束した上で、隠しカメラを用いてこのインタビューを収録した。この手法は、ドキュメンタリー映画の倫理をめぐる議論の対象ともなっている。

構成

「第一の時代(Première époque)」と「第二の時代(Deuxième époque)」の2部構成となっており、クライテリオン・コレクション版などの収録時間によると、「第一の時代」が約4時間33〜34分、「第二の時代」が約4時間52〜53分である。

劇場での上映やホームメディア、放送などではそれぞれの部がさらに2部ずつに分割される(第1部〜第4部)形になることもある。

各シークエンスは現在の風景(収容所跡、森、線路、川、村、駅)とインタビューを交互に織り交ぜる構成になっており、それぞれ特定の収容所や地域を中心としながらも、時系列に沿った説明ではなく、複数の証言者の語りを行き来しながら進行する。

言語と通訳

本作の言語構成は複雑である。証言者はポーランド語、ドイツ語、英語、ヘブライ語、イディッシュ語など多言語で語り、フランス語の字幕(場面によってはフランス語の音声)が添えられる。

なお、監督のランズマン自身はドイツ語と英語についてはインタビュー中に通訳を介さず直接会話しており、通訳が介在するのはポーランド語のやり取りに限られる。ポーランド語からフランス語への通訳は、前述のとおりバルバラ・ヤニツカが務めており、劇中にもその通訳を行う姿が映し出される場面がある。

撮影技法・スタイル

撮影は、証言者の顔を長時間にわたって捉える手法を基調とし、証言の合間には収容所跡地、森、鉄道の線路、現在も走る貨物列車などの風景ショットが挿入される。これらの風景は、かつての出来事の物理的な痕跡がほとんど残っていないことを逆説的に浮かび上がらせる機能を果たしている。

証言者の分類は大きく三つに分けられる。虐殺の犠牲者側であるユダヤ人生存者、加害の当事者であった元ナチス関係者、そして収容所の近隣に暮らしていたポーランド人の目撃者・傍観者である。ランズマンはしばしば証言者に対して執拗に、また時に挑発的に問いを重ね、証言者が言葉に詰まったり涙を見せたりする場面でもインタビューを中断せずに続けさせている(理容師のアブラハム・ボンバへのインタビューはその代表例として知られる)。

ロケーション

撮影場所は、ヘウムノ、ソビブル、トレブリンカ、アウシュヴィッツ=ビルケナウなど旧絶滅収容所の跡地、ワルシャワ、ウッチ、ヴィリニュス(現リトアニア)近郊のポナリの森、ベルリン、ミュンヘン、ヴッパータール、コルフ島(ギリシャ)、イスラエル、米国など多岐にわたる。

テーマ分析

本作を貫く主題は、記憶・証言・不在の関係である。歴史家のラウル・ヒルバーグが劇中で述べるように、ナチスによる「最終解決」は、既存の官僚機構と輸送網を転用することで成立した、独自の発明であるとする視点が示される。ランズマン自身は本作を単なる歴史の記録ではなく、過去が現在に絶えず亡霊のように回帰し続けていることを示す試みと位置づけていたとされる。

証言者の言葉そのものが史料であるという考え方に基づき、本作はしばしば「オーラルヒストリー」の映画的実践として論じられる一方、演出的介入(インタビューの誘導や反復の要求、隠しカメラの使用)を伴う点で、純然たる記録映画とは一線を画すとも評される。

批評家からは、ポーランド人の関与や態度の描写をめぐって議論が生じてきた。一部の歴史家は、本作がポーランド人によるユダヤ人救出の事例や、ドイツ占領下でポーランド人自身が被った甚大な犠牲について十分に触れていない点を批判している。

公開

フランスでの初公開は1985年4月30日、パリで行われた。西ドイツでは1986年のベルリン国際映画祭で上映された。その後、西ドイツのテレビ局WDRおよびNDRでも放送され、賛否の分かれる反応を呼んだ。

興行的には限定的な公開にとどまったが、後年のケーブルテレビやビデオソフトの普及を通じて広く視聴されるようになったとされる。

主な受賞・評価

本作は公開後、ベルリン国際映画祭の国際批評家連盟賞(FIPRESCI賞)、ニューヨーク映画批評家協会賞の最優秀ノンフィクション映画賞、英国アカデミー賞(BAFTA)の最優秀ドキュメンタリー賞などの世界各国の主要な映画賞を多数受賞した。批評的には広く高い評価を受け、現在では史上最も重要なドキュメンタリー映画の一本として言及されることが多い。

一方で、前述のとおりポーランドにおける受容は複雑であり、ポーランド人の描写をめぐる批判が公開当初から存在した。

歴史的な位置づけ

本作は、ホロコーストを主題とする映画史において、演出やアーカイブ映像に依拠しない証言中心の方法論を打ち立てた作品として位置づけられている。ランズマンは後年、劇映画的な再現手法によってホロコーストを描いた『シンドラーのリスト』(1993年)などの作品に対して批判的な立場を取ったことでも知られ、この対比は本作の方法論的立場を理解するうえでしばしば参照される。

ランズマンはその後も、本作の取材過程で得た未使用素材をもとに、『生者の世界からの訪問者(Un vivant qui passe / A Visitor from the Living)』(1997年)、『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(2001年)、『カルスキ・レポート』(2010年)といった関連作品を製作している。

ホームメディア

上映時間の長さのため、本格的なホームメディア化は劇場公開から長い年月を要した。米国では2000年頃にVHS化された後、2003年10月にニューヨーカー・ビデオから4枚組DVDとして初めて本格的にソフト化された。2012〜2013年には原ネガからの2Kデジタル修復が行われ、これを基に2013年6月、クライテリオン・コレクションから3枚組Blu-ray(および6枚組DVD)が発売された。このリリースには関連作品『生者の世界からの訪問者』『ソビブル、1943年10月14日午後4時』『カルスキ・レポート』も併録され、現在に至るまで標準的な高画質版の基盤となっている。2021年からはデジタル配信(IFC Films経由)でも視聴可能になり、2026年9月にはクライテリオンから追加ドキュメンタリーを収めた新装版(4枚組Blu-ray)が発売されている。

ヨーロッパでは、フランスで2001年頃にホワイ・ノット・プロダクションズなどから4枚組DVDが発売され、2010年代に2012年の修復版を基にしたリリースが整備されたが、本格的なBlu-rayボックスセットの登場は遅く、カルロッタ・フィルムズからの発売は2025年11月であった。英国では2007年にユーリカ/マスターズ・オブ・シネマからDVDが、2015年1月には本編と関連4作品を収めた4枚組Blu-rayボックスセットが発売され、高品質版の普及に大きく寄与した。ドイツでもDVDは2000年代後半以降、Blu-rayは2010年代以降にアブゾルート・メディエンなどから復元版を含めて発売されている。

日本では2015年にマーメイドフィルムによりデジタルリマスター版が劇場公開され、その後DVD・Blu-rayが発売された。

全体として、1980年代後半から1990年代にかけては劇場上映やテレビ放送(米国PBS、1987年/フランスTF1、1987年など)が中心で、上映時間の長さから家庭用ソフト化は後回しにされてきた。2012年前後のデジタル修復を契機に、クライテリオンやマスターズ・オブ・シネマによる高品質版の整備が世界的に進み、関連作品を併録した豪華版が主流となった。

検索リンク

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インタビュイー一覧

ユダヤ人生存者・関係者

  • シモン・スレブルニク — ヘウムノ収容所生存者(イスラエルより現地に招致され、ヘウムノで証言)
  • モルデハイ・ポドフレブニク — ヘウムノ収容所生存者、元特別労務班員。エルサレムで行われたアドルフ・アイヒマン(ユダヤ人絶滅作戦における強制移送の最高責任者)の裁判に検察側の証人として出廷した(イスラエル在住)
  • モトケ・ザイドル — ヴィリニュス(ポナリ)収容所生存者(イスラエル在住、ベン・シェーメンの森で証言)
  • ハンナ・ザイドル — モトケ・ザイドルの娘(イスラエル在住)
  • イツハク・ドゥギン — ヴィリニュス(ポナリ)収容所生存者(ポナリの森で証言)
  • リヒャルト・グラツァール — トレブリンカ収容所生存者(バーゼル在住)
  • アブラハム・ボンバ — トレブリンカ収容所生存者、元特務班員・理容師(イスラエル在住)
  • パウラ・ビレン — ウッチ・ゲットーとアウシュヴィッツ収容所の生存者(米国在住)
  • ルドルフ・ヴルバ — アウシュヴィッツ収容所元特別労務班員、脱走者(米国在住)
  • フィリップ・ミュラー — アウシュヴィッツ収容所元特別労務班員
  • インゲ・ドイチュクローン — ベルリン生まれ、地下に潜行して生き延びた生存者(イスラエル在住)
  • サミュエル・レーヴィ — コルフ島出身の生存者
  • モシェ・モルド — コルフ島出身の生存者
  • アルマンド・アーロン — コルフ島のユダヤ人信徒共同体代表
  • ルース・エリアス — テレジン収容所・アウシュヴィッツ収容所の生存者(イスラエル在住)
  • ガートルード・シュナイダー夫人とその母親 — ワルシャワ・ゲットー生存者(米国在住)
  • シムハ・ロテム(戦士名カジク) — ワルシャワ・ゲットー蜂起の戦士(イスラエル在住)
  • イツハク・ツキェルマン(戦士名アンテク) — ユダヤ人戦闘組織副司令官(イスラエル在住)

ポーランド人の目撃者・住民

  • ヤン・ピヴォンスキ — ソビブル駅の元副転轍手
  • ピエティラ夫人 — アウシュヴィッツの住民
  • フィリポヴィチ — アウシュヴィッツおよびヴウォダヴァの住民
  • ファルボルスキ — コウォの住民
  • チェスワフ・ボロヴィ — トレブリンカの農民
  • ヘンリク・ガウコフスキ — トレブリンカの元機関手
  • グラブフの住民たち — 元ユダヤ人家屋の居住者ら

ドイツ人の元関係者・証人

  • フランツ・ズーホメル — 元SS伍長、トレブリンカ収容所勤務
  • ヨーゼフ・オーバーハウザー — 元SS中尉
  • フランツ・シャリング — 元防護警察官、ヘウムノ収容所勤務
  • ミヒェルゾーン夫人 — ヘウムノのドイツ人小学校の元教師夫人
  • アルフレート・シュピース — 1960年トレブリンカ裁判の首席検察官
  • ヴァルター・シュティール — 元ナチ党員、ドイツ国鉄(ライヒスバーン)元課長
  • フランツ・グラスラー博士 — ワルシャワ・ゲットーのナチ司政官の元補佐官

歴史家・その他の証人

  • ラウル・ヒルバーグ — オーストリア生まれのユダヤ人、米国(ヴァーモント州)在住の歴史学者
  • ヤン・カルスキ — 当時ロンドンの亡命ポーランド政府の密使としてワルシャワ抵抗組織との連絡役を務めた(米国在住)

あらすじ

これ以降は本編の内容を詳しく記述する。

後年の一部のホームメディア版では、第一の時代・第二の時代のそれぞれの冒頭に、イザヤ書56章5節からの引用「私は彼らに滅びることのない名を与える(Et je donnerai un Nom impérissable)」をエピグラフとして掲げたタイトルカードが表示される。このタイトルカードは1985年の劇場公開版には存在しない。

第一の時代(Première époque)

第1部

冒頭でヘウムノに関する以下のテロップが表示される。

物語は現在、ポーランドのナレフ川沿いのヘウムノで始まる。
ウッチの北西約80キロ、かつて大規模なユダヤ人人口を擁した地域の中心部にあるヘウムノは、ポーランドで初めてユダヤ人がガスによって絶滅させられた場所である。
絶滅は1941年12月7日に始まった。ヘウムノでは、2つの時期に分けて40万人のユダヤ人が殺害された。
1941年12月〜1943年春、そして1944年6月〜1945年1月である。
しかし死の与え方は一貫して同じだった。ガス・トラックである。そこに送られた40万人の男女と子供のうち、生きて出られたのはわずか2人だけだった。モルデハイ・ポドフレブニクとシモン・スレブルニクである。
最後の時期の生存者であるスレブルニクは、ヘウムノに送られた時13歳の少年だった。父親はウッチ・ゲットーで彼の目の前で殺され、母親はヘウムノのガス・トラックで死んだ。
SSは彼を「ユダヤ人特別労務班」の一員に組み入れた。この班は絶滅収容所の維持管理を命じられ、最終的には自分たちも殺される運命にあった。
1945年1月18日の夜、ソ連軍が到着する2日前、ナチスは残っていた「特別労務班」のユダヤ人全員を後頭部を撃って殺した。シモン・スレブルニクもその中にいた。しかし弾丸は脳の重要な中枢を外れた。
(彼はポーランド人の農民に発見され、ソ連軍の軍医によって治療を受けた。数ヶ月後、他の生存者とともにテルアビブへ向かった。47歳になった彼を、ランズマンはイスラエルで見つけ、ヘウムノへの再訪を説得した。)

まずポーランドのヘウムノ絶滅収容所跡を舞台に、生存者シモン・スレブルニクの証言が置かれる。ヘウムノ村を再訪したスレブルニクは、ネール川でポーランドのポピュラーソング「白い小さな家」やドイツ軍歌などの当時の歌を披露しながら、遺体を焼却した経験を語る。ヘウムノについては、イスラエル在住のもう一人の生存者モルデハイ・ポドフレブニクも証言し、生き延びるためには忘れなければならなかったこと、死者のように生きてきたことを語る。

続いて、ヴィリニュス(ヴィルナ)近郊の虐殺地ポナリをめぐる証言が展開する。イスラエルのベン・シェーメンの森ではモトケ・ザイドル(同地生存者、娘のハンナ・ザイドルも在イスラエル)が証言し、他方、実際にポナリの森を再訪したイツハク・ドゥギンは、ユダヤ人の遺体を穴から掘り返して焼却した経験(自身の家族についても)を現地で語る。

舞台はソビブル絶滅収容所跡へ移り、元副転轍手のヤン・ピヴォンスキ(ポーランド人)が現地で、ユダヤ人の脱走やガス室に至る鉄道の様子を証言する。

トレブリンカに関しては、バーゼル在住の生存者リヒャルト・グラツァールが収容棟や死体焼却の様子を、イスラエル在住のアブラハム・ボンバが特務班としての作業を語る。現地では、地元の農民チェスワフ・ボロヴィと元機関手ヘンリク・ガウコフスキ(いずれもポーランド人)が、移送列車を見た記憶や、駅員たちが移送中のユダヤ人に水を与えたエピソードを証言する。ランズマンはガウコフスキに、ユダヤ人移送に使われた蒸気機関車を、トレブリンカへと向かう当時と同じルートで運転させる。

アウシュヴィッツについては、米国在住の元特別労務班員ルドルフ・ヴルバが荷降場(ランプ)での作業を語る。現地アウシュヴィッツの住民であるピエティラ夫人、およびフィリポヴィチ(アウシュヴィッツおよびヴウォダヴァの住民)は、旧ユダヤ人街の様子や、1940年のユダヤ人の強制退去について証言する。同様に、コウォの住民ファルボルスキの証言も置かれる。

ベルリンでの地下潜伏体験については、イスラエル在住のインゲ・ドイチュクローン(ベルリン生まれ)が証言する。

続いて、ランズマンが元SS伍長フランツ・ズーホメル(ドイツ人)をオーストリアのホテルに招いて行った隠し撮りのインタビューが挿入される。ズーホメルはトレブリンカでの実務について詳細な証言をする。

第2部

ランズマンはミュンヘンのビアホールを訪れ、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)将校クリスチャン・ヴィルトの部下だったヨーゼフ・オーバーハウザーにアポなし取材を試みる。ランズマンはビアホールで働いているオーバーハウザーにヴィルトの写真を見せ、ベウジェツ収容所の話を聞き出そうとするが、オーバーハウザーは黙して語らない。

トレブリンカ裁判(1960年、フランクフルト)の首席検察官であったアルフレート・シュピースの証言も紹介され、「ラインハルト作戦」の概要が説明される。

フィリップ・ミュラー(元特別労務班員)も証言し、歴史家ラウル・ヒルバーグ(米国在住)が「最終解決」を既存の官僚制度の論理的帰結として分析する。

続いて、元防護警察官フランツ・シャリング(ドイツ人)への隠し撮りインタビューが行われる。

モルデハイ・ポドフレブニクは、収容所の第一期(「館の時代」)およびガス・トラックについて証言し、ヘウムノのドイツ人小学校教師夫人であったミヒェルゾーン夫人は当時の記憶を語る。

グラブフの元シナゴーグ(現在は家具倉庫)では、ランズマンが1942年1月19日にラビのヤコブ・シュルマンがウッチの友人に宛てた手紙を読み上げる。グラブフの住民たち(ポーランド人)へのインタビューでは、彼らがかつてユダヤ人が住んでいた家に今も住んでいることなどが語られる。

ヘウムノではシモン・スレブルニクが収容所第二期(「教会の時代」)の生存者として村を再訪し、村人たちに囲まれる。コウォの住民ファルボルスキは、トラックでユダヤ人が移動中に殺害された様子を証言する。部の終盤では、ヘウムノの車両(ガス・トラック)の技術的改造に関する機密文書(1942年6月付)が紹介される。ここでは現存するザウラー社製のトラックがドイツのルール工業地帯を走行する映像が挿入される。

第二の時代(Deuxième époque)

第3部

フランツ・ズーホメルの隠し撮りのインタビューが続く。ズーホメルは特別労務班の歌を歌い、トレブリンカ収容所の地図を指し示しながら、ガス室での大量殺戮の手順や当時のユダヤ人たちの様子を詳細に描写する。

トレブリンカについては、イスラエル在住のアブラハム・ボンバが証言する。ランズマンが設定したテルアビブの理容室で、客(ボンバの故郷チェンストホヴァ出身の友人)の髪を切りながら、収容所のガス室でユダヤ人の髪を刈った経験や、ガス室に送られる直前の妻子を抱擁した知人の理容師の話を語る。ボンバは話の途中で言葉に詰まるが、ランズマンは証言を続けさせる。フランツ・ズーホメルとリヒャルト・グラツァールは、「野戦病院(Lazarett)」と称して行われた老人・病人・子供の銃殺について証言する。

アウシュヴィッツについては、米国在住のルドルフ・ヴルバが新旧の荷降場について証言する。フィリップ・ミュラーも、焼却棟でのガス殺の実態や、脱衣場にいた友人の妻に運命を告げた特別労務班員が生きたまま焼却炉に投げ込まれた出来事を証言する。

ギリシャのコルフ島に話が移り、生存者サミュエル・レーヴィ、モシェ・モルド、ユダヤ人信徒共同体代表アルマンド・アーロンが、島からの連行の経緯や密告者の存在について語る。

元ナチ党員でドイツ国鉄(ライヒスバーン)の元課長であったヴァルター・シュティールへの隠し撮りインタビューでは、移送列車の運行実務が語られる。ここでは、ナチスがユダヤ人の絶滅政策をカムフラージュするためにユダヤ人の移送を「再定住(Umsiedlung)」という隠語で呼んでいたことが明らかになる。歴史家ラウル・ヒルバーグは、この輸送体制を「死の輸送」として分析する。

部の後半では、リヒャルト・グラツァール(バーゼル在住)とフィリップ・ミュラーの証言を軸に、トレブリンカとアウシュヴィッツにおける囚人蜂起の計画と、その実行の困難さが語られる。ルドルフ・ヴルバは、アウシュヴィッツ第一収容所の抵抗組織との接触について語り、収容所内でのユダヤ人の生存戦略とドイツ人政治犯の抵抗運動との間の目的の乖離について証言する。

第4部

イスラエル在住のルース・エリアス(テレジン収容所・アウシュヴィッツ収容所の生存者)の証言により、チェコ系ユダヤ人の「家族収容所」に関する経緯が語られる。ルドルフ・ヴルバは、家族収容所のユダヤ人たちが半年間の隔離の後にガス室送りとなった経緯や、家族収容所のフレディ・ヒルシュに蜂起を提案したが服毒自殺されてしまった顛末を証言する。

フィリップ・ミュラーは、家族収容所のチェコ系ユダヤ人たちがガス室前で合唱した場面や、自らも同胞と共に死のうとしてガス室に入ったが制止されたエピソードを語る。

ヴルバは1944年4月、仲間のヴェツラーと共にアウシュヴィッツから脱走し、外部にその実態を伝えようとした経緯を証言する。

ポーランド亡命政府の元密使ヤン・カルスキ(米国在住)がニューヨークの自宅で語る。カルスキはワルシャワ・ゲットーを視察した際の惨状(路上の遺体、飢餓、ヒトラーユーゲントの少年による発砲など)を証言し、ユダヤ人指導者たちから国際社会への働きかけを依頼された経緯を語る。

元ナチ司政官補佐であったフランツ・グラスラー博士(ドイツ人)へのインタビューでは、ワルシャワ・ゲットー評議会議長アダム・チェルニャクフの日記が話題にのぼる。歴史家ラウル・ヒルバーグは、チェルニャクフの日記の記述と、彼が1942年7月23日(最初のトレブリンカ移送の翌日)に自殺した経緯について解説する。

米国在住のガートルード・シュナイダー夫人とその母親(ワルシャワ・ゲットー生存者)の映像(シュナイダー夫人が歌い、母親が涙する)に続き、ワルシャワ・ゲットー蜂起(1943年4月19日開始)の経緯が、テロップと証言によって説明される。

以下のテロップが表示される。

ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人戦闘組織が1942年7月28日に正式に結成された。
トレブリンカへの第一次移送が1942年9月30日に中断され、ゲットーには約6万人のユダヤ人が残っていた。
1943年1月18日、移送が再開された。武器の不足にもかかわらず、戦闘組織のメンバーは抵抗を呼びかけて戦闘を開始し、ドイツ軍の意表を突いた。戦闘は3日間続いた。死傷者の出たドイツ軍は撤退し、ユダヤ人は打ち捨てられた武器を手に入れた。移送は中止された。今やドイツ軍は武力による以外にゲットーを壊滅させる道はないと悟った。
1943年4月19日の夜、戦闘が始まった。過越(すぎこし)の祭(ペサフ)の前夜だった。ゲットー殲滅に至る戦闘だった。

イスラエル在住の蜂起の戦士シムハ・ロテム(戦士名カジク)とユダヤ人戦闘組織副司令官イツハク・ツキェルマン(戦士名アンテク)が、“ゲットーの戦士”キブツの博物館(イスラエル)で、武器調達の失敗などの蜂起当時の記憶を語る。

映画は貨物列車を引いて走る蒸気機関車の映像で幕を閉じる。